NGOミャンマー駐在員のハリキリノート

ミャンマーのタウンジーという町で、国際協力をやっています。NGO活動、ミャンマーあれこれ、国際結婚育児ネタなど

海外在住者がコロナに振り回された1か月を振り返る

ミンガラーバー。

ミャンマー在住、鈴木亜香里です。

 

3月中旬より、ミャンマーでの新型コロナウィルスの動向についてブログに更新してきました。4本の記事をほぼ毎日更新しているので、ミャンマーのコロナ事情を知りたい方はご参照ください。

 

www.ngomyanmar.com

 

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さて、この記事ではミャンマー全体のことではなく、私の個人的なコロナストーリーを書いていきたいと思います。私はミャンマーに残留することを決めているので今は精神的に安定していますが、特に3月後半はいろいろと状況が変わってコロナに振り回され、プチコロナ鬱状態になりそうでした。

 

海外在住の方は誰もが悩むコロナ帰国問題について、書きたいと思います。

 

時系列でみる、私とコロナ

3月15日:ブログ開始

ミャンマーのコロナ情報についてブログに書こうと突然思いつき、最初の記事を書きました。このころは、まだミャンマーで感染者はいませんでしたが、3月11日にWHOがパンデミック宣言を出したためにミャンマー政府がいろいろと本気を出してきた時期です。デマ情報も多く、ヤンゴンやマンダレーで買い出し騒動が起こりました。

 

3月16日~21日:ビーチへスタッフ旅行

実は、この時期、スタッフ研修旅行でグエサウンビーチに行っていました。17年間ミャンマーで活動してきた中で初めてのスタッフ研修旅行。総勢30名以上がシャン州とチン州から集まるので、「コロナの中で集まってもいいものか・・・」と思ったものの、まだ国内で感染者が発生していなかったために予定通り実施。手洗いうがいの徹底や、ハンドジェルを全員で使うなどしました。マスクをしている人は少数でした。

 

今なら「こんなときに大勢で旅行に行くなんて非常識だ!」と思いますが、その時期はまだ行ける時期でした。ただ、旅行中もどんどん情勢が変わっていって、ビーチでブログを更新していたことを覚えています。

 

例えば、私立学校や塾の閉鎖。長男のインターナショナルスクールはまだ開いていたので、ビーチには次男のみ連れていったのですが、ビーチに着いた日からインターナショナルスクールは閉鎖に。こんなことだったら、長男も一緒にビーチに行けたのに・・・と思っていました。

 

3月20日:一時帰国を断念する

国際線の減便がどんどん増えていって、地球市民の会のマネージャーが予約していた3月26日のベトナムエアがキャンセルに(コロナ関係なく帰国を予定していた)。ベトナムエアにいくら電話してもつながらないので、とりあえず急いでANAをとったほうが良いとなり、15万円以上もしたANAの26日の便を取りました。

国際線が無くなって帰れなくなるかも!?という危機感がこの時期から出てきました。

 

地球市民の会のミャンマーマネージャーと本部が、コロナ対策について話し始めます。「ミャンマーのコロナ対応はどうしますか?」と聞いても本部の動きは遅く、「明後日考える」的な・・・。こちらは刻一刻と状況が変化していて不安なのに。海外在住組と日本にいる人の温度差がひどいです。

 

私は4月の水祭り時期に一時帰国する予定でした。2月ごろから「一時帰国は無理っぽいなぁ」と思っていましたが、この時期に完全に諦めました。ちょうどヤンゴンにいたので、髪を切ったり、寿司を食べたり、納豆や明太子を買いだすなど、一時帰国中にやろうと思っていたことをヤンゴンで済ませました。

 

3月23日:ミャンマー初感染者確認

私の誕生日。ミャンマーで初めての感染者が確認されました。この時期はまだ村やセンターにも行けていましたが、集まりは小規模で実施。タンボジセンターの卒寮式がありましたが、来賓は4名のみでこじんまりとした式を行いました。

 

3月24日:帰国を指示される

ミャンマーで初の感染者が出たことを受け、在ミャンマー日本大使館より「駐在員の帰国を検討してください」的なメールが来ました。このメールは、在ミャンマー日本人の多くに衝撃を与えました。その前から、駐在員の家族や60歳以上の帰国は始まっていましたが、駐在員の多くはこのメールで帰国を決めたと思います。

 

地球市民の会でも、本部はこのメールを見てすぐに「駐在員は帰国するように」と方針を出してきました。あまりにも展開が急で戸惑います。当会の駐在員は私を含めて3名。ヤンゴンのマネージャーはもともと帰国が決まっていたので、予定通り3月26日に帰国。チン州駐在員は国際線が取れ次第帰国することになりました。ただ、国際線がこの時点で4月19日ごろしかとれませんでした。ANA直行便以外に選択肢がなく、帰国する人たちで満席状態でした。

 

私はというと、家族がいるので自分の意志で残留を決定。何度考えても、日本に帰国するよりミャンマーに残るほうが良いと思ったからです。記事後半で詳しく書きます。

 

ちなみに、この日にミャンマーは「新たに入国した人は全員14日間隔離。入国のためにはCOVID-19陰性証明が必要」と打ちだしてきています。一度帰国すると、次はいつ戻ってこられるかわからない中で、多くの駐在員たちが帰国を決断しなければなりませんでした。

 

3月25日:友人と同僚のドタバタ帰国準備で鬱

ニャウンシュエに住む友人から「今日ヤンゴンに行って待機。国際線が取れ次第帰国する」という連絡が来ました。シャン州で日本人の友達がいない中、よく遊んでくれた私の心の支えのような友達です。もう戻ってこないなどと言い出すので、「一生会えなくなるかも!?」と思い、ニャウンシュエまで会いに行きました。

 

彼女はだいぶ精神的にやられていて「今日、ヤンゴンまでの飛行機飛ぶかな・・・いきなりシャン州ロックダウンされたらどうしよう」などと言い出します。私の夫が航空券手配会社をやっているので、夫に電話してとりあえず今日は飛行機が飛ぶことを確認したり、パッキングをしたり、残していく荷物をもらったりしました。・・・が、結局、ヤンゴンで外国人が泊まれるホテルが見つからなかったのと、ヤンゴンで外国人が長く滞在するのは良くなさそうということで、この日は彼女はヤンゴンに移動しないことになりました。国際線が決まったらヤンゴンに移動することに。

 

「チン州がロックダウンされる」という情報が入ってきました。15時ごろにその話を聞いたのですが、本日中にチン州を出ないと、翌日から物資以外の一切の通行は禁止だという話です。チンの駐在員がチン州で孤立してしまうので、急いでチンから出てバガンに向かうことになりました。2時間で急いで帰国の準備をして、物をトランクに詰め込んで出発していきました。どれだけパニック状態だったかは「トランクの中に、なぜか洗濯バサミが大量に入っていた」という彼女の発言によく表れています。

 

チン駐在員がトランクに洗濯バサミを詰め込んでいるころ、他の日本人スタッフは彼女のホテル(バガンとヤンゴン)を予約したり、国内線を予約したり、より早く帰れる国際線を探したりしていました。このころ、ホテルは閉鎖するところも出てきていましたし、外国人というだけで宿泊拒否をしてくるところも出てきていましたので、若干手間取りました。国内線は楽勝。国際線については、タイがなぜか数日間だけトランジットを許可していたので、3月30日のタイ経由のANA便を予約することができました(その数日以外は、タイは高額な保険加入とCOVID-19陰性証明を義務付けていた)。

 

この数日間、コロナ対応に追われて通常業務は全くできない状態でした。

こんなつぶやきもしていました。一瞬の判断の遅れや、ちょっとした判断ミスで帰れなくなるかもしれないという状況を目の当たりにして、怖すぎる・・・と。国際線もぜんぜんとれないし。

 

情報がないことがとても怖いと思ったので、ここから数日間はずーっとFacebookを見たり、Twitterを見ていました。日本語とミャンマー語でコロナ情報を探しまくって、携帯ばっかり見ていて鬱になったのもあると思います。怖くて情報を集めずにはいられなかったです。(まあ、今もかなりの頻度でFBとtwitterはチェックしてますけど、この時期よりマシ)

 

3月26日:掃除と布マスクづくり、誓約書にサイン

ナウンカセンターに行って、本当は研修をするつもりでしたが、掃除と布マスクづくりを行いました。研修センターの閉鎖も少し考えましたが、もともと3月31日で終了予定だったので、そこまでやりきることを決意。センター中をアルコールで拭いて、消毒液がないのでかわりに竹酢液を撒きました。ミシンの研修をしていたので、研修生たちに布マスクをたくさん作ってもらい、当会スタッフが使えるようにしました。アルコールやハンドジェル、布マスクなどをスタッフのために買いあさりました。

 

ニャウンシュエの友人がタウンジーに来て、お金の両替や国内線の手配などをしました。無事にANAの直行便を取れたみたいで良かった。

 

私は「自分の意志で残留します」的な誓約書にサインをして、本部に提出。やたらと「早くサインしろ」とせかされて、「ここから先は自己責任やぞ!知らんぞ!」と言われた気がして気が滅入る。まあ、組織として誓約書を書かせるのは必要なことだというのはわかっているけど、なんかつらいよね。

 

3月27日:友人を空港まで送る

ニャウンシュエの友人をヘーホー空港まで送っていきました。次はいつ会えるかな?彼女が残していった日本食などをもらいました。もう日本食のストックが切れかけていたのでありがたい・・・。 

空港でピースしている女性2名

ヘーホー空港にて。次男撮影

チン駐在員は30日に帰国ですが、日本についてから行動制限にひっかかることに気づきました。14日間、自宅かどこかで自己隔離。公共交通機関は使えない。羽田に着くのは夜だし、彼女の自宅は大阪で家族もすぐには迎えに来られない・・・。一体どうしたらいいのか。とりあえず、本部スタッフが羽田周辺のホテルを手配。

 

他にも、飛行機に乗るための「fit to fly」という健康診断書(熱や咳がないですという証明)をとるためにヤンゴンの医療機関に行ってもらったりしました。自分のことではないですが、いろいろと心労がたまる。

 

3月28日:フランス人ご一行が近くに!

3月28日にケース8(フランス語ガイド)の陽性が発表となりました。フランス人11名のグループとガイドさんはシャン州にも来ていました。彼らの行程が発表されると、シャン州の知っている場所やお店ばかり・・・緊張が走ります。

 

3月31日:ナウンカセンター研修修了

3か月間の研修が終了したので、修了式を行いました。コロナの影響で来賓はゼロとしましたが、スタッフがたくさん集まってくれました。修了式のあと、スタッフでミーティングをして、今後のリモートワーク時の体制について話し合ったり、本部からの指示を伝えたりしました。この時点では、シャン州南部に感染者が一人でも出たら、AB方式(Aチームが3日、その後Bチームが3日出勤する方式)をとろうと話していました。

 

4月2日:大使館より安否確認の電話

 

ニャウンシュエにいる友人に電話やメッセージを送り、在留届のことや飛行機の便が無くなる可能性があることを知らせる。

 

私は残留が決定しているので、心乱されることなく、水祭り前に終わらせるべき仕事をこなすのみ。一時期はコロナで仕事に手がつかなかったけれど、だいぶ落ち着いて仕事ができるようになった。

 

4月6日:明日からシャン州外出自粛!

ヤンゴンやマンダレーの外出自粛令が出始めていたので、シャン州でも水祭り中は外出自粛令が出るかな~と思っていたところ、なんと、4月7日から開始とのこと!まだシャン州南部では陽性患者出てないのに。

 

この日は少し風邪気味(夜寒かった)だったので、午前中は葛根湯を飲んで布団の中で寝ていたのだけれど、この知らせを聞いて飛び起き、急いで事務所へ行った。明日から事務所に来られなくなるので、リモートワークができるように印刷物や必要なものなどを持ち帰る準備をした。ちょうど年度末の会計作業があるので、PCを3台も持って帰らないといけないことに・・・。夫に車で迎えにきてもらって、PC3台を持ち帰った。

 

別件で医者に行く用事があったけど、クリニックは閉まっていた。急ぎの場合は大きい病院に来いとのこと。急ぎじゃないから諦めた。

 

4月7日:リモートワーク開始

外出自粛令ということで、普段来てくれている子守のアンティーも出勤しないことになった。自宅で仕事をしながら、子ども2人の面倒をみないといけない・・・。TVを見せたり、タブレット学習をさせたりしたけど、ちょくちょくとこっちに来るので能率は落ちる。それでも、やるべきことは終わらせられたので、ちょっとホッ・・・。

水祭りが10日からなので、リモートワークは7日~9日の3日間のみで済んだ。これ、長かったらシンドイ・・・。

 

 4月10日、11日:買い出し

 

以前は2日に1回はOceanスーパーマーケットに行っていたが、コロナ以降はなるべく回数を控えている。12日から17日まではスーパーマーケットが閉まってしまうので、1週間全く買い物しなくても済むように、食材を買い出しに。肉は早めに調理して冷凍。パンも冷凍したり、ホットケーキミックスや小麦粉も買った。

 

4月11日に、タウンジーの人で陽性が出たので焦る。とにかくたくさんの情報・噂をFBから拾って、翻訳。記事も書いた。とりあえず、水祭り中は絶対に家から出ないと決意。

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4月12日~:ひきこもり、大掃除

休み期間中、やたらと夫は家の大掃除をやっている。私もやらないわけにはいかないので、断捨離。家がどんどんきれいになっていく。

食事はさぼらず、おやつまで作っている。子どもたちはテレビを見るか、うんこドリルをやるか、マンションの下の駐車場で自転車を乗るか。

アップルケーキを見ている男の子

毎日おやつを作って食べる!買ってきたお菓子も無くなった。