NGOミャンマー駐在員のハリキリノート

ミャンマーのタウンジーという町で、国際協力をやっています。NGO活動、ミャンマーあれこれ、国際結婚育児ネタなど

「寄付はなんか違う」と思っている人を動かす方法

ミンガラーバー。

ミャンマーでNGOの駐在員をやっています、鈴木亜香里です。

 

先日、友人が書いた「ミャンマーと寄付文化」という、とっても素敵なnoteを読み、いろいろと寄付について想うところがあったので書きたいと思います。

 

ミャンマーと寄付文化

友人が書いたnote。まずはこちらを読んでみてください。

note.com

 

ミャンマーの寄付文化がすごいという話が書いてあります。 

そのへんのことは、私も何度も書いていて、たとえば以下の記事。

www.ngomyanmar.com

 

コロナ関連の寄付の話はこの記事。

www.ngomyanmar.com

 

森さんのnoteにも、コロナで隔離されている最中にミャンマー人から寄付を受け取ってうれしかったと書いてあります。

5日に1回くらい提供されるタピオカジュース、クッキー、インスタントコーヒー、メッセージ付きお弁当、には本当に励まされた。

 

ミャンマーの寄付文化はとても素敵で、森さんのFacebookのコメントにも「ミャンマーが寄付1位ってすごいねー」といったコメントが並んでいました。

 

余談ですが、うちの事務所もなぜか大量の牛乳とヨーグルトをもらいました。コロナで大変だからと、ダッチミルが配ってくれました。

牛乳やヨーグルトが大量に机の上に並んでいる写真

大量にもらったダッチミル!

 

寄付を否定する人の考え方

寄付は「なんか違う」という感覚

でも、私が一番このnoteで「おおっ」と思ったのが、この部分。

実は、寄付は「なんか違う」と思っていた

 

なんとなくですが、、、「寄付」をすることよりも、仕事を作ったり、雇ったり、何かの対価としてお金をあげたり、お金よりも、役割を与える、という方が真っ当だ、と思っていた。

 

寄付は、魚に餌を与えているだけで、人も、地域も、国も、成長させるものではないと考えていた。

 

なんか、もう私は国際協力業界に身を置いて長いし、寄付大国のミャンマー人みたいなマインドになってしまっているので、「寄付=良いこと」という考えが根を張ってしまっています。寄付をしたくないとか、「寄付は偽善」という人の考えが全く理解できなくなってしまっていて・・・。

 

 

こんな感じ。

でも、寄付に慣れていない人たちって、こういう風に考えているんだということが言語化されていて、なるほどなぁと思ったんです。

 

反論はできる。が・・・

そして、そういう意見に反論もできます。

 

「お金をあげるより、役割をあげるべきだ」と言っても、実際にはそう簡単に貧しい人に役割は与えられないでしょう。自分のやることもあるから、遠い国に行って支援したりは全員ができるわけではないです。

だから、私たちNGOやNPOがそういう仕事をします。それを支えるために、お金という形で参加してもらっているわけです。

「べき論」を言うだけで何もしないよりは、お金をあげるほうが絶対に良いことだと思います。

 

貧しい人たち、困っている人たちは、怠けているからそうなっているのではなくて、構造的にそうなっている場合が多いです。先進国に生まれて、恵まれた生活をしている私たちは、たまたま運が良かっただけ。運が良かっただけの私たちが、運が悪かった人をディスるのはおかしい。

 

などなど。反論しようと思えば、いくらでも反論できます。

 

でも、その反論を聞いて、寄付したくない派の人が「わかりました。考えを改めて寄付をします!」ということにはならないでしょう。喧嘩になって終わるだけでしょう。

 

ポジティブに寄付を語れるようにしたい

ネガティブな「寄付すべき!」論

大学のときとか、国際協力論とかグローバリズム的な授業をとっていると、南北問題とか、植民地の話とか、多国籍企業わるー!!!みたいな話をたくさん知ります。内紛とかでかわいそうな子供の話とかもいっぱい勉強します。

知ってしまったからには、どうにかしたいと思って、国際協力の道に進む人も多いんだと思います。私もそういうタイプ。

 

でも、「先進国の人間=悪」と言われると悲しくなるし、多国籍企業が悪いと知っていてもその商品は買っちゃうし、構造を変えたいと思っても自分は何をすればいいのかもわからんし、自分の日々の生活も忙しいし・・・という人も多いはず。

(私だって、ネスレがコーヒー農家からコーヒーを安く買いたたいていると知っても、ネスカフェのネスプレッソとか好きで買っちゃう)

 

で、何をしたらよいのかわからなくなって、寄付とか国際協力とかボランティアが嫌になる。自分が悪いと言われているようで、何も考えたくなくなる。そして、「寄付は偽善だ」とか、「お金をあげるのはむしろ悪」みたいな、それっぽいことを言い出して、自分のことを正当化し始める。

 

なんか全体的にネガティブなんですよね。入りからしてネガティブ。ネガティブだから、距離を置きたくなる。

 

私たちはすでに与えられている

でも、森さんの「私たちはすでに与えられている」という言葉はめちゃくちゃポジティブなのです。

私たちが一番与えられているものは「歴史」なのではないかと思う。

「寄付をしないと」と駆り立てられるようになったのは、「歴史」の本を読んで、すでに色々自分に用意されて、与えられているものが多すぎる!と感じるようになったから。

歴史や会社だけでなくても、家族からの無償の愛、自然の恵み、すでに受け取ってるものが多く存在している、と認識ができた時、誰かにその恩や、恵み、お金、縁、を繋げていけるのかなあと思う。

 

この最後の章はすごく良くて、全部引用したいくらい。ぜひ森さんのnoteを読んでください。もう1回リンク貼っときます。

note.com

 

世界の構造とか、解決すべき問題はいっぱいあります。でも、「お前らが悪い。だから寄付すべき!」みたいなことを言われると嫌になっちゃう。考えさせられることは多いけど、考えるのも疲れちゃう・・・。

 

森さんやミャンマー人は、そんなややこしく考えません。自分は与えられていると感じているから、その分をまた誰かに与えて循環していく。それだけ。循環の一部になっているだけ。循環していることが心地よいから、寄付をするという行動に現れる。

 

そういう姿を目にしていると、周りの人も「私もその循環に加わりたい」と思うようになってくるんだろうなぁ。例えば、ミャンマーに住んでいる日本人が何かに寄付する率は、一般日本人の平均を遥かに超えてると思います。

 

循環を感じられる方法をデザインする

となると、私たちNGO・NPOの人間がやるべきことは、「循環を感じられる方法をデザインすること」なのかなと思います。

 

たとえば、スタディーツアーとか、このブログやSNSの発信などで、素敵な循環があることを多くの人に知ってもらうこと、体験してもらうこと。そして、自分もその循環の一部になりたいと思ってもらって、行動してもらうことなのかなーと。(まだあまり言語化できていないので、わかりづらくて恐縮ですが)。

 

今日は以上、こんな感じ。

 

寄付に関しては、こんな記事もあります。よかったら読んでね。

www.ngomyanmar.com